2005/01/03


会津の名君・名将


会津藩の主な名君です。(少しずつ増やしていく予定です)

蒲生氏郷(がもう うじさと)  弘冶2年(1556)〜文禄4年(1595)

 氏郷は近江日野城主蒲生賢秀の長男として生まれ、織田信長に仕え、ついで、豊臣秀吉の天下統一に従って活躍した戦国武将である。小田原征伐では大いに功績を上げ、42万石をもって会津若松城主に任ぜられ文禄2年(1593)には91万9300石に加増されている。
 氏郷はその短い在城中に、黒川城の大改築を行い、七重の天守閣を建てておおいに城を拡張し、名城と謳われた鶴ヶ城の基礎を固めた。さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの施策を講じた。その一つは市を設けて生産物の交易を図った。馬場町は一と八、本郷町は二と七、三日町は三、桂林寺町は四と九、大町は五と十、六日町は六と、日を定めて市を設けた。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作り、また酒造や金工など、上方の秀れた技術を会津へ移入する事によって、後世に伝えられる産業の振興を図った。
 また、氏郷は茶人としても有名で、「利休七哲」の中でも筆頭格に挙げられていた。千利休が豊臣秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた際、千家が途絶えるのを憂えた氏郷は次男の少庵を会津に引き取った。この時、少庵が氏郷のために建てたと伝えられるのが茶室「麟閣」です。戊辰戦争後、城から市内に移築されていたものを、平成2年城の元の場所に再移築され、一般に公開されている。

  氏郷辞世歌
    「限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」

蒲生氏郷公に関連する場所
蒲生氏郷公の墓 蒲生氏郷公の辞世歌 会津漆器 会津酒造歴史館
蒲生氏郷公の墓 蒲生氏郷公の辞世歌 会津漆器 会津酒造歴史館
麟閣(門) 茶室と天守閣 茶室
麟閣(門) 茶室と天守閣 茶室

再生ペット樹脂使用会津漆器について
リサイクル漆器(平皿、汁茶碗) 福島県内で収集された廃ペットボトルから作られた
再生ペットフレークを原料に使った食器類です。
この食器は、電子レンジや食器洗い機に対応しており、
福島県内の百貨店などで販売されています。

うつくしま、エコ・リサイクル製品 ロゴ
うつくしま、エコ・リサイクル製品認定商品(認定No.16−21)
再生ペット樹脂使用会津漆器の紹介番組(ダウンロードしてからご覧ください)
 ・おしえて!うつくしま(福島中央テレビ)〔放送日:2004年6月20日〕 (ファイルサイズ: 142MB)
 ・ニュースの森ふくしま(テレビユー福島)〔放送日:2004年7月1日〕 (ファイルサイズ: 52.7MB)


蒲生秀行(がもう ひでゆき)

 秀行は、蒲生氏郷と織田信長の娘とのあいだに生まれた豊臣時代の武将で、氏郷の死後、文禄4年(1595)に会津91万9300石を継いだが、慶長3年(1598)宇都宮に18万石で移封された。しかし、関ヶ原の役では、徳川家康に忠誠を誓って功績をあげたため、慶長3年(1601)再び会津60万石に復帰する事が出来た。秀行は慶長17年(1612)5月、30歳でこの世を去り、市内門田町薬師堂境内に葬られたといわれている。
 しかし、秀行の子忠郷が死んで嗣子がなく、弟の忠知が跡を継いだが、寛永11年(1634)継嗣がなく蒲生家は断絶させられてしまった。市内門田町薬師堂境内にある五輪塔が秀行の墓であるが華々しい戦国武将としての面影はない。

蒲生秀行廟
 廟屋は大きい切石を二段に積んだ高い一重基壇によって造られた墓室上に、石造五輪塔(2.7メートル)を据え、これを木造覆屋で被覆している。
 この廟屋は、遺構の原型部分、特に懸魚や木鼻に桃山ないし江戸初期の特色があり、建立は秀行卒年(1612年)の間もない頃と考えられる。
蒲生秀行公の廟屋 蒲生秀行公の廟屋 蒲生秀行公の廟屋
蒲生秀行公の廟屋 蒲生秀行公の廟屋 蒲生秀行公の廟屋


保科 正之(ほしな まさゆき(徳川家康の孫・第三代将軍家光の弟))

 二代将軍秀忠の第4子として、奥女中お静(板橋在大工の娘)との間に誕生し、幸松丸と命名され、7歳のとき信州高遠藩保科弾上大弼正光(ほしなだんじょうだいひつまさみつ)に養子に出された。21歳で高遠藩を継ぎ3万石の城主となったがその後、寛永13年(1636)7月山形最上(20万石)へ転封となり、寛永20年(1643)会津藩23万石の大名として入部する。表高は23万石であるが南会津から下野国塩谷郡に及ぶ南山5万石預けられ、実高は28万石であった。これは時の将軍家光が徳川御三家第三位の水戸徳川家25万石を追いこしてしまうことへの配慮により、表高を23万石と過少に見せたのである。実際正之が藩主として入部した最初の秋、実高は279,960石であった。
 正之が会津藩主として数々の藩政改革を行った中で特筆されるのは
  @殉死の禁止(幕府より先に制定)
  A社倉制度の創設(以後、飢饉の年にも餓死者なし)
  B間引の禁止
  C本邦初の扶持制度の創設(身分男女の別を問わず90歳以上の者に終生一人扶持を給与、今で言う国民年金制度)
  D救急医療制度の創設
  E会津藩家訓15ヶ条の制定
 晩年は江戸で過ごし、第3代将軍家光の遺言により、11歳の家綱が第4代将軍に就くと、大老酒井忠勝と老中松平信綱・阿部忠秋・松平乗寿・保科正之で文治政治が行われた。特に保科正之は家綱の輔弼役として、並ぶ者のない権勢を誇り会津藩を不動のものとした。保科正之は儒教、とくに朱子学に「為政者に求められるのは、武でも迷信でもない。身をもって下を率いる人格である。」と言う根本思想を見いだし、将軍の心得書「輔養編(ほようへん)」を編纂、会津に因んだものとしては「会津風土記」や「会津旧事雑考(あいづくじざっこう)」などの史書を著わし、聖人とまで仰がれる名君となった。
 4代将軍家綱の輔弼役としての功績は
  @家綱政権の「三大美事」の達成(末期養子の禁の緩和・大名証人制度の廃止・殉死の禁止)
  A玉川上水開墾の建議
  B明暦の大火直後(振袖火災)の江戸復興計画立案と、迅速なる実行(ただし、江戸城天守閣は無用の長物として再建せず)
 保科正之は猪苗代町の土津(はにつ)神社に奉られており、土津とは正之の霊号である。

保科 正之公を祀っている土津神社です
土津神社霊神之碑 土津神社本殿 土津神社鳥居 秋色土津神社
土津神社霊神之碑 土津神社本殿 土津神社鳥居 秋色土津神社
土津神社境内案内図
土津神社境内案内図


松平 容保(まつだいら かたもり(会津藩最後の藩主))

 尾張徳川家の分家、美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の6男として、天保6年(1835)12月29日江戸四谷の高須藩邸松平家上屋敷で生まれ、幼名を_之允(けいのすけ)といい、弘化3年(1846)6月、11歳の_之允は会津松平家の養子となる。江戸和田倉門会津上屋敷で藩主容敬が直々に教育に当たった。
 江戸で5年間帝王学を修めた容保は嘉永4年(1851)5月、16歳の春会津に下る。会津での教育には国家老の山川兵衛が当たった。この兵衛の孫たちが後年会津を代表する人物となる。山川大蔵・山川健二郎・大山捨松がそうである。(いずれこの3名も紹介する予定にしております)
 しかしながら、会津藩主松平容保ほど苦難に満ちた生涯を送った大名は他にいない。事の始まりは、幕府長老より京都守護職を押し付けられたのが発端である。孝明天皇(明治天皇の父君)の厚い信頼を受けながら、都の治安を前身全霊で遂行し、都に火を放ち孝明帝を長州に拉致しようとした策略を未然に防ぎ、「公武一和」を望んだ容保も徳川慶喜に見放され、いわば幕府の生贄となって戊辰戦争を戦う羽目に陥った。
 戊辰戦争後、慶喜が駿府で悠々自適の生活をしている頃、会津藩家臣は会津降陣人とさげすまされ、容保は日光東照宮の宮司としてひっそりと生きねばならなかった。
 松平容保が生涯持ち続けたのは、「おのれは朝敵にあらず」との固い信念であり、容保の孫娘松平節子が秩父宮妃殿下として皇室に入られた時、容保の無念のおもいは晴れたのである。
 明治26年12月5日没 享年59歳

松平容保 公 滝沢旧御本陣 御薬園
松平容保 公(京都守護職時代) 滝沢旧御本陣 御薬園
松平御廟案内図 会津松平家廟所入り口 会津松平家廟所
松平御廟案内図 会津松平家廟所入り口 会津松平家廟所





会津藩の主な名将です。(少しずつ増やしていく予定です)

田中 玄宰(たなか はるなか)

 会津藩家老として、第5代藩主松平容頌から容住・容衆の3代にわたって仕え、27年間の在任中に藩財政の立て直しや数々の藩政改革を行った。
 第5代藩主松平容頌は寛延3年(1750)7歳で藩主となり、9代の藩主中最も長い55年治めることとなるが、保科正之以来の藩政は40万両を超す借金となって容頌を苦しめた。このため容頌は、俊才田中玄宰を家老に登用し、藩政の一大改革に着手した。
 玄宰は、藩政の基礎が農・工・商の振興にあり、それをなしとげるためには士=家臣団の教育と人材登用を断行しなければならないと決意した。このため、熊本の古屋昔陽を招いて、藩祖正之が排斥した古学派を導入し、藩政に役立つ家臣団の育成を図ったが、正之以来の藩風を変えようとする玄宰の試みは藩主容頌をはじめ藩内の大きな抵抗にあい、1784年には一時家老を辞することとなった。しかしながら、財政危機に対応できる人物が他に見当たるはずもなく、玄宰は再び家老に復帰して、藩政改革を進めることになった。
 まず、藩士の学風を切り替えるために藩士の就学を義務付け、産業に役立つ知識や技術の習得を含んだ文武一体の教育を始めたが、これは会津藩にとって空前のできごとであった。この学制改革は文化元年(1804)藩校会津日新館の完成となって結実し、実学尊重の気風が会津に根付くこととなった。ついで、薬用人参の栽培、漆器や酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めた。その中においても城下の豪商林光正とともに人材の育成に努めた。遠藤香村は農家に生まれながら画才を認められ、江戸、京都に写生学を学んで会津に帰り、漆器や陶磁器、絵ろうそくなどの図案の改良に大きく貢献したのがその一例である。また玄宰は、江戸に会津物産会所を設けて、漆器、酒類の販売を促進した。これにより江戸の漆器は100%近くが会津塗で占められたという。
 こうして藩政改革を進めた玄宰であったが、藩主容頌の後を継いだ容住・容衆がいずれも若死したこともあり、玄宰の死後、その実学優先の思想は年々保守的なものとなり、藩政も再び疲弊することとなった。玄宰の墓は遺言どおり、鶴ヶ城と日新館の見える小田山の頂上にある。

復元された日新館です
日新館正門 日新館大成殿 会津藩校日新館 説明板
日新館正門 日新館大成殿 会津藩校日新館 説明板
旧日新館の施設跡です
旧日新館天文台跡
旧日新館天文台跡
田中玄宰の墓です
田中玄宰の墓 小田山から望む鶴ヶ城
田中玄宰の墓 小田山から望む鶴ヶ城


西郷頼母(さいごう たのも)

 家老西郷頼母は鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていた。頼母は抗戦(戊辰戦争)を主張する藩論の中にあって、終始恭順を説いていたが、和平策の尽きたとき、まだ幼い長男(吉十郎)伴って篭城を決意した。この別れの宴のとき、母の律子は漢詩を吟じて頼母を励ました。妻の千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」と辞世の歌を詠み韻々と響く砲声を耳にしながら、9歳、4歳、2歳の子を自らの手で刺し、これにならって妹2人、16歳の長女、13歳の次女ら一族21名ことごとく刃に伏し、頼母の後顧の憂いをたったと言う。
 篭城が続く中、これ以上の篭城戦は無益と悟った藩主松平容保は、孝明天皇より賜った御震翰を頼母に託し、城から脱出させ、頼母は山形方面に逃れたという。後に孝明天皇より賜った御震翰が会津は朝敵ではないとの証となる。城を脱出した頼母は明治・大正の世を生き抜いたが、一子吉十郎が夭折してからは、ただ一人茫々とした面持ちで世の移り変わるさまを眺めて暮らしたという。
 なお、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は、西郷頼母の養子であるという。

西郷頼母邸跡と復元された西郷頼母邸です
西郷邸跡 西郷邸説明板 復元された西郷邸(表門) 復元された西郷邸(表玄関)
西郷邸跡 西郷邸説明板 復元された西郷邸(表門) 復元された西郷邸(表玄関)
復元された西郷邸(裏玄関)
復元された西郷邸(裏玄関)
西郷家の菩提寺の善龍寺です
善龍寺山門 なよ竹の碑 西郷一族の墓
善龍寺山門 なよ竹の碑 西郷一族の墓


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