西郷 頼母
(さいごう たのも)

 家老西郷頼母は鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていた。頼母は抗戦(戊辰戦争)を主張する藩論の中にあって、終始恭順を説いていたが、和平策の尽きたとき、まだ幼い長男(吉十郎)伴って篭城を決意した。この別れの宴のとき、母の律子は漢詩を吟じて頼母を励ました。妻の千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」と辞世の歌を詠み韻々と響く砲声を耳にしながら、9歳、4歳、2歳の子を自らの手で刺し、これにならって妹2人、16歳の長女、13歳の次女ら一族21名ことごとく刃に伏し、頼母の後顧の憂いをたったと言う。
 篭城が続く中、これ以上の篭城戦は無益と悟った藩主松平容保は、孝明天皇より賜った御震翰を頼母に託し、城から脱出させ、頼母は山形方面に逃れたという。後に孝明天皇より賜った御震翰が会津は朝敵ではないとの証となる。城を脱出した頼母は明治・大正の世を生き抜いたが、一子吉十郎が夭折してからは、ただ一人茫々とした面持ちで世の移り変わるさまを眺めて暮らしたという。
 なお、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は、西郷頼母の養子であるという。

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