保科 正之
(ほしな まさゆき)

 二代将軍秀忠の第4子として、奥女中お静(板橋在大工の娘)との間に誕生し、幸松丸と命名され、7歳のとき信州高遠藩保科弾上大弼正光(ほしなだんじょうだいひつまさみつ)に養子に出された。21歳で高遠藩を継ぎ3万石の城主となったがその後、寛永13年(1636)7月山形最上(20万石)へ転封となり、寛永20年(1643)会津藩23万石の大名として入部する。表高は23万石であるが南会津から下野国塩谷郡に及ぶ南山5万石預けられ、実高は28万石であった。これは時の将軍家光が徳川御三家第三位の水戸徳川家25万石を追いこしてしまうことへの配慮により、表高を23万石と過少に見せたのである。実際正之が藩主として入部した最初の秋、実高は279,960石であった。
 正之が会津藩主として数々の藩政改革を行った中で特筆されるのは
  @殉死の禁止(幕府より先に制定)
  A社倉制度の創設(以後、飢饉の年にも餓死者なし)
  B間引の禁止
  C本邦初の扶持制度の創設(身分男女の別を問わず90歳以上の者に終生一人扶持を給与、今で言う国民年金制度)
  D救急医療制度の創設
  E会津藩家訓15ヶ条の制定
 晩年は江戸で過ごし、第3代将軍家光の遺言により、11歳の家綱が第4代将軍に就くと、大老酒井忠勝と老中松平信綱・阿部忠秋・松平乗寿・保科正之で文治政治が行われた。特に保科正之は家綱の輔弼役として、並ぶ者のない権勢を誇り会津藩を不動のものとした。保科正之は儒教、とくに朱子学に「為政者に求められるのは、武でも迷信でもない。身をもって下を率いる人格である。」と言う根本思想を見いだし、将軍の心得書「輔養編(ほようへん)」を編纂、会津に因んだものとしては「会津風土記」や「会津旧事雑考(あいづくじざっこう)」などの史書を著わし、聖人とまで仰がれる名君となった。
 4代将軍家綱の輔弼役としての功績は
  @家綱政権の「三大美事」の達成(末期養子の禁の緩和・大名証人制度の廃止・殉死の禁止)
  A玉川上水開墾の建議
  B明暦の大火直後(振袖火災)の江戸復興計画立案と、迅速なる実行(ただし、江戸城天守閣は無用の長物として再建せず)
 保科正之は猪苗代町の土津(はにつ)神社に奉られており、土津とは正之の霊号である。

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